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  • 牧師

バプテストは、人間の堕落についてどう信じるのか

(祈り)私たちすべてが、神が求められるような男女になることができますように。


 人は、創造主の法により、神聖の中で創られたものです。創世1:27です。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」そして、創世1:31です。「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」さらに、伝道7:29です。「私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。」


 しかし、神の法を自らの意思で犯したので、聖にして幸せな状態であったのに、ここから堕落してしまいました。創世3:6-24に、その顛末が書かれています。ローマ5:12です。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。」


 その結果として、すべての人は罪人となっているというわけです。ローマ5:19です。「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」ヨハネ3:6です。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」詩篇51:5です。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」


 強いられてではなく、自発的に選んだ結果であります。イザヤ53:6です。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」創世6:12もそうです。「神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。」ローマ3:9-18に詳しいことが述べてあります。


 人は、神の法に求められた聖さを全く欠き、悪を行うことに積極的となり、弁解の言葉もなく、永遠の滅びへと宣告されたことを、バプテストは信じています。エペソ2:13です。「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」ローマ1:18です。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」ローマ1:31です。「わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」ローマ2:1-16に詳しいところが述べられています。エゼキエル18:19,20です。「あなたがたは、『なぜ、その子は父の咎の罰を負わなくてよいのか』と言う。その子は、公義と正義とを行い、わたしのすべてのおきてを守り行ったので、必ず生きる。罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」ローマ1:20です。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」ローマ2:19,20です。「また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」


 悪魔はすでにさばかれてはいますが、人はまださばかれていません。神はその失われたたましいの救いのために、イエスの十字架のみわざを用意されました。しかし、サタンはこれに敵対し、十字架のみわざの価値をおとしめようと活発に活動しています。その罠から逃れるためには、私たちは是非とも自分の性質というものを知っておかなければならないのです。それは、お分かりのように、サタンがその私たちの弱いところを攻撃してくるからです。母性愛、社会への忠誠心、世の中と仲良くやっておきたい、どれも神を第一としない罪の性質で、私たちの誰もに色濃く残存している性質です。ここを、サタンがついてくることを、よく理解しておかなければなりません。


 私たちかクリスチャンになったということは、そういった罪人のままの古い性格を変えなければならないということではありません。クリスチャンになったとはいえ、二つの性格を持ったままなのです。古いアダムの性格と、聖霊によって植え付けられた新しい性格であります。


 ローマ6:4-14とローマ7:15-24に詳しく教えられていますが、エペソ4:22を見てみましょう。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、」また、コロサイ3:9-10も読んでみましょう。「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」


 古い罪の性質があることと、それを悲しむ新しい性格があること、を認識しておくことと、決して古い性格を正当化しようとしてはなりません。正当化作業というのは、自分を熱心な信者であることを人に認めさせようという作業です。古い性格があって当然であることと、これを悔い改め、悲しんで、生きていかなくてはなりません。


 その二つの性質の戦いについては、ローマ7:23です。「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」


 人は、異なった律法に挑まれて、私たちの力だけでは負けてしまうことが書かれています。これに勝利するには、聖霊の力により頼むことが必要で、そのために教会が存在するのです。教会につながっておくことで、私たちは悪しき力に勝利して、多くの実を結ぶことになります。教会につながるということは、ただ礼拝にでておくということではなく、主のわざに積極的に参加しておくということです。


 神に創造された時点の人間についてですが、アダムには、罪はありませんでした。創世1:26です。「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」神に似るように造られたのです。この章の最後で、「・・・よかった」と言っていますから、罪がない状態であったということが分かります。


 そして、この最初の人間というのは、猿から進化した者のように動物的な野蛮人であったのでしょうか。いいえ、それどころか、すぐれた人間であったのです。彼らは、園の管理を任されました。そして、最初に神が創造した動物たちに名前を付けています。こういったことができるのは、すぐれた人間にしか出来ることではありません。


 創世2:19-20です。「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。」


 そういう罪のない、賢い状態であったのに、最初の人間は、自発的に、自分で決めて、罪を犯し、堕落してしまいました。食べるなといわれていた実を、自発的に取って食べました。創世3:6です。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」


 この出来事が、人間の堕落の最初です。最初と申すのは、その後で生まれてくる、すべての人間はすべて罪人で、現在の私たちもまた罪人であるということになってしまいました。罪の性質を持って生まれてくるということです。ローマ3:9です。「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」ローマ5:12もそうです。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。」


 私たちは、先祖のおかげで罪人になったというニュアンスでとらえてはなりません。私たち自身も、自ら選んで罪人になっているのだということをみとめられなければなりません。生まれながらに、先天的にもちろん罪の性質を持ってはいますが、それと同時に、誘惑された時、絶対に罪を犯してしまいます。ヤコブ1:13-15です。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」


 そういうことで、アダムのゆえということだけでなく、そういう欲によって悪へと進む性質のゆえにも、間違いなく罪人でありあります。それで、断罪と永遠の破滅のもとにあるということは仕方のないことなのです。


 先週学びましたが、神は絶対的に聖いお方であられますから、先天的、後天的罪を必ず罰せられます。ローマ1:18です。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」


 さて、自分の罪を少しでも軽減できる情状酌量の余地というもの、私たちにあるのでしょうか。弁解の余地というものがあるのでしょうか。いいえ、まったくありません。ローマ1:20です。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」


 なぜ、他の被造物は、自分たちの身を覆うものを持っているのに、人間だけは裸なのでしょうか。人間は最初創造されていた時、何かの覆いでおおわれていたとしか考えられません。何かによって覆われていたのでしょうか。それは、神の栄光であります。そのことが分かるのは、彼らが罪を犯した直後の様子からです。


 創世3:7です。「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」


 

 罪を犯した直後から、彼らを覆っていた神の栄光がなくなり、裸であることに気付いたということです。ローマ3:23です。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」もともと有していた神の栄光を、罪の故に受けられないということが書かれています。

罪の状態で生まれてくる人間は、今日もそうですが、自分は間違っていない、悪いことはしていないと考えていますが、神の目からすれば、どのような点で間違っていると宣告されているのでしょうか。それは、聞く、見る、考える、食べる、言う、なす、その他、あらゆることにおいてであります。そのもともとのところにあるものは、自分の思いに従っているということと、自分に権威があると思っていることであり、そういうことが根本的な間違いであるということです。


 最後に、進化論の危険性について述べますが、もし進化してきたということが本当なら、創造主なんかを認める必要はありません。神に感謝などしなくていいのです。堕落のことも考えなくてよく、それぞれの人間が自分たち独特の、共通項がほとんどない良心によって生きていく世界になります。考えたくない結果を生んでいくことでしょう。


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