悔い改めと信仰とは、私たちのたましいに生まれ変わりをもたらす聖なる働きであります。この二つは分離できない神の恵みです。悔い改めれば信仰を持ちます。悔い改めて信仰を持たないということはありません。同時進行です。マルコ1:15です。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」イエスは伝道を開始されたときに、悔い改めと信じるということを、すべての人間に強く命じられました。悔い改めと信仰は、ユダヤ人たちだけではなく、すべての人々に対してです。使徒11:18です。「人々はこれを聞いて沈黙し、『それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ』と言って、神をほめたたえた。」
悔い改めと信仰を命じられましたが、人間はかたくなですから、命令に従えません。神の働きかけが必要なのです。エペソ2:8です。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」そういうことで、悔い改めと信仰は、神の働きを伴う命令であるということです。その結果がⅠヨハネ5:1です。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」教会に属するようになり、自分と同じように生まれた者たちを愛するようになります。
神の働きを受けて、イエスの命令に従う者に、宣教師は、悔い改めと信仰を促し、自分の罪深さ、自分が危険な状態にあること、さらに行き詰まりを説き聞かせます。そのような手立てで、神は救いの道を知らせられます。そこで用いられるのが、私たちバプテストなのです。ヨハネ16:8です。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」その方とは聖霊なる神、教会につながる者の働きです。そういうバプテストの話を聞くと、神の働きを受けている者は反応します。使徒2:37,38です。「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」また、使徒16:30,31も同じです。「そして、ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか』と言った。ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』と言った。」
私たちは真実の悔い改めの告白をし、嘆願して神のあわれみを求めることしかできません。救いは神の側にあるのです。ですから、悔い改めが最初に来るのです。ルカ18:13です。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」
悔い改めと信仰により、私たちは神に近づいていくことができます。そうすれば、強くなることが出来ます。しかし、簡単に神に近づくことは出来ません。近づきたいたび、神に悔い改めなければなりません。ヤコブ4:7-10です。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」悔い改めと信仰は、私たちの信仰生活の中で延々と続く繰り返しの、大切な定例行為なのです。
悔い改めと信仰により神に近づくことが赦されている根拠は、イエス・キリストであります。ですから、悔い改めの旅に、心の底から主イエス・キリストを預言者、祭司、王として受け入れ、唯一絶対の救い主としてキリストだけに信頼しておく必要があります。ローマ10:9-13です。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。」
悔い改めと信仰と申していますが、その信仰とは、神がイエスを死者の中からよみがえらせたということとを信じることです。その信仰を口で告白して、公のものにしなければなりません。
その根拠とするところが使徒3:22,23とヘブル1:8です。二つを読みましょう。「モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』」もう一つ、「御子については、こう言われます。『神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。』」
さて、悔い改めと信仰について学びましたが、その経験を通して救われたと思っている方が、もし救いのはっきりした証拠を示すことがなされていない場合、何が原因なのでしょうか。救いの経験をしていない場合と、正しい理解をしていない場合とがあり、理解していない理由としましては、肉の思いが強い場合にそうなります。
悔い改めと信仰は、何をもたらすのでしょうか。それは救いと新生であります。悔い改めと信仰とは、神聖な人間の義務であり、また二つは分離することのできない神の恵みなのです。私たちを新生させる神の聖霊により、たましいの中にもたらされるものです。
罪の自覚、認罪と申しますが、これはいかにして人にもたらされるのでしょうか。律法が守れないことによって、良心に示されます。内からの気づきとしましては、自分の無力性、自分の罪の深さ、自分の罪の危険性を自覚するということになります。そこに、外からの働きかけとして、私たちバプテストからキリストの救いが届けられることになります(ヨハネ16:8)。
悔い改めについて、これはどういうものか、罪の自覚と神の義とを同時に悟り、自分の思いと心を神に向かうように変えると生じる行為です。信仰については、イエスご自身を自分の救いのために信じて、より頼むようになることです。そして、一つ一つのことの神のみこころを知り、これを行なうようになります。
悔い改めと信仰は、どこから来るのでしょうか。Ⅱテモテ2:25で分かります。「反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」神からくるのです。私たちの説得からは生じません。
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