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  • 牧師

バプテストは、救いの方法についてどう信じるのか

 (祈り)私たち一人ひとりが、他人の救いに関して、重荷を持つことができますように。


 罪人の救いは、恵みのみによります。エペソ2:5です。「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──」エペソ2:8もそうです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」Ⅰヨハネ4:10です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」


 恵みによる救いと申すのはどういうことか、神であるイエスご自身は罪を犯さないにも関わらず、私たちの罪の性質をご自身に背負われたということです。ピリピ2:6,7です。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、」ヘブル2:9も読みましょう。「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」ヘブル2:14もそうです。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、」

父なる神に任命された仲保者の務めに忠実に従った十字架の死というものがありました。イザヤ42:21です。「先祖の咎のゆえに、彼の子らのために、ほふり場を備えよ。彼らが立って地を占領し、世界の面を彼らの町々で満たさないためだ。」ピリピ2:8です。「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」


 十字架の死が、私たちを罪から贖いました。イザヤ53:4,5です。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」マタイ20:28です。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」ローマ4,25です。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」


 イエスは、死人たちの中より復活し、天の御座に座されました。ヘブル1:3です。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」ヘブル1:8です。「御子については、こう言われます。『神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。』」コロサイ3:1です。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。」


 イエスは、慈しみと憐れみと兼ね備え、救い主としてあらゆる面で十分に資格を備えておられます。ヘブル7:25,26です。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」コロサイ2:9です。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」ヘブル2:18です。「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」人の救いは、そういう御子による神の恵みであります。


 聖書の救いの永遠性についてですが、一時的な救いではありません。一度救われますと、後で救われてなかったということはありません。ヨハネ3:16です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ5:24もそうです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」


 一度救われた者は、救いを失い得ないということについては、ローマ8:39です。「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」


 もし信仰を告白した人が、恵みから落ち永遠に滅びる者になると信じているのなら、私たちは、その人が救われていると信じていいのでしょうか。救われてはいるのですが、がっかりしているだけです。


 その人は、救われているとはいえ、キリストではなく、自分自身を信じているということです。ヤコブ2:19です。「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」Ⅰペテロ1:5です。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。」


 救いはすべて、恵みによるということについて、もうひと言、当然の報酬ではないということと、努力なしで与えられるというものです。エペソ2:8,9です。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」ローマ3:24です。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

救いは、キリストによるということについて、キリスト以外の他のものは、救い主にはなれません。キリストは人となられましたが、罪の性質はお持ちにはなりませんでした。また、すべての人が破った律法を、キリストは守りきられました。Ⅰペテロ2:22です。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」


 十字架の死によって、キリストが私たちの罪のために罪の負債をすべて払われたことについて、罪のないキリストが、罪人の私たちの代わりに犠牲になって下さったので、罪なき者と見なされるようになったということです。


 キリストは、私たちの罪のために死なれ、よみがえられて、死に勝利されました。キリストが神であることを証明され、私たちもいずれ復活しますが、その初穂として、よみがえられたという意味もあります。そして、今、天の王座に着いておられます。ローマ8:34です。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」


 キリストは、すべての点において、救い主として十分な資格を持っておられることについては、人間でありながら、罪を一つも犯さなかったということを覚えて、模範にしなければと決意しておくべきです。エペソ2:22です。「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」ヘブル9:14です。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」


 救いの三時制、新生、聖化、栄化について、この三時制は、次のように言い換えることはできます。罪からの救い、罪の力からの救い、そして、罪の結果からの救い、さばかれないというようにということです。

過去

 霊

 救われた

 新生

現在

 心(知情意)

 救われつつある

 聖化

未来

 体

 救われるであろう

 栄化

 キリストは、どのように十字架で死なれたのでしょうか。霊においてか、肉体においてか、どうでしょうか。キリストは、神との分離と、肉体とたましいの分離の両方を経験されました。マタイ27:46です。「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」私たちはキリストの犠牲のおかげで、神との分離を経験しないで済むようになっています。Ⅰペテロ1:5です。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。」


 霊的な死とはどんなことでしょうか。神から交わりを断たれ、分離されるということです。創世2:17です。「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」Ⅰペテロ3:19-20です。「その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。」


 キリストの肉体に何が起こったかというと、栄光のからだとして復活です。キリストのからだに起こったことは、今日の私たちにどういう関係があるのでしょうか。私たちも復活するということです。Ⅰコリント15:20-23です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」


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