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バプテストは、救いの無代価性についてどう信じるのか

 救いからの数々の祝福は、キリストの福音によって、すべての人に価いなく与えられるものであります。イザヤ55:1です。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」また、黙示22:17です。「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」


 悔い改めと神に対し従順な信仰によって、救いを無代価に受けることができます。できるということだけではなく、無代価で救いを受けることは、すべての人の即刻行うべき義務でもあります。ローマ16:26です。「永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示」マルコ1:15-17です。「『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』」


 しかし、生来の罪はキリストの福音を拒否します。ヨハネ5:40です。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」ローマ9:32です。「なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。」


 拒否さえしなければ、拒否する以外何ものであっても、地上最悪の罪人を神の救いから妨げることはできません。福音拒否は、更に悪いさばきに巻き込まれることになります。ヨハネ3:19です。「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。」マタイ11:20です。「それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。」


 救いの無代価とはいったいどういうものなのかということですが、キリストの身代わりの死と、聖霊が働いて下さるということに尽きます。私たちは罪人ですから、救いが必要な存在だと気づけません。ですから、神の側から働いてくださらない限り、救いの必要の悟りにたどり着けません。罪人であることと、救いが必要であることを知らされ、そのためイエスが十字架で死なれたことを信じられれば、救いは、無代価で与えられます。


 救いが無代価という根拠は、神の御子、イエス・キリストの十字架の死という代価があってのことです。ヨハネ3:16です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」Ⅰペテロ1:18-19です。「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。」


 無代価ということは、恵みによって与えられるということです。ローマ4:5です。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」


 すべての罪人は、キリストを受け入れる義務があります。私たちは被造物にすぎない者であり、また罪人であり、神のさばきを受けなければなりません。それに、キリスト以外に救いはありません。ですから、キリストを受け入れるしかないのです。


 それなのに、人はどうしても救いの福音を拒絶します。どうしてなのか、人間には生れつきの罪悪性というものがあるので、いつも自分を神としていて、自己中心的な生き方を、自らの力や悟りで止めることはできません。この生き方を続けたい限り、まことの神を神として認めることはしません。


 福音拒絶の結果は、神のさばきを受けるということになります。永遠のさばき、永遠の死であります。罪人は、自由に救いを受け入れたり拒絶したりすることはできます。しかし、神の前でその責任を負わせられます。信じる自由、信じない自由に伴う責任があるということです。だから、救いを受け入れない自由もありますが、神のさばきを受け入れなければならないという責任があるということです。


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