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バプテストは、義認についてどう信じるのか

 キリストを信じる人に与えられる大いなる祝福は、神の義であることを私たちが信じられることにあります。ヨハネ1:16です。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」エペソ3:8です。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、」使徒13:39です。「モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」ローマ8:1です。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」


 神の義とは罪を赦されることです。ローマ5:9です。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」


 神の義とは、義の原則による永遠のいのちの約束を含み、いかなる義の行いをも必要とせず、救い主の流された血を信仰により受け入れること、これだけによります。ローマ5:17です。「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」テトス3:5,6です。「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」


 神の義は、神から私たちに注がれるもので、注がせるものではありません。ローマ4:4,5です。「働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」


 神の義のおかげで、私たちは、最も祝福された神の平安と寵愛の状態に入れます。そして、現在においても、また永遠においても必要な祝福はすべて得られることになります。ローマ5:1-3です。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、」、ローマ5:11もそうです。「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」マタイ6:33です。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」


 聖書の中で使われている用語を、なぜ理解しなければならないのかというと、言葉自体をそれまでの教養や経験から、簡単に解釈してしまう傾向が、私たちにはあります。あまり質問をしたがらず、早く分かってしまう早とちりをして、聖書の根拠を作らずに、人に教えていくという失敗をやらかします。こうして、間違った教理を作り出して、人に宣べ伝えるという危険性があるのです。ですから、キリスト教用語については、一つずつ、しっかりとした聖書的背景を持っていないと、間違った宗派を生み出します。その正確な解釈を持つのが教会で、個人的伝道が危ないと言うことがお分かりでしょう。


 ならば、幾多の教科書からなる神学研究といったものはどうなのかということになります。多くの宗派がキリスト教にはありますが、正しい教理をもった団体は非常に少ないという現状を把握していなければなりません。どこも、人間の考えを第一としている傾向があるのです。Ⅰペテロ1:20です。「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。」


 何度も申しますが、聖書の用語を理解していないことは、宣教において大変に危険なことなのです。多くのクリスチャンと呼ばれる方々は、恵み、悔い改め、信仰、義認といったことのまことの意味を理解していません。勝手な自己流解釈をする、誤った教師たちによる、間違った意味を受け入れる結果となっていっています。間違った教理は、神のみこころでない教理をどんどん生み出していきます。


 神が私たちのため準備されたことは、キリストによって確保されていました。まず、キリストの十字架による私たちの救いがそうです。次が良い行いであります。エペソ2:10です。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」それから、ローマ8:28,32です。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。・・・私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」


 キリストを信じる者はすべて義とされます。信仰による義ということです。ガラテヤ2:16です。「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」キリストの義をいただくということです。


 過去の罪、未来の罪をも赦されています。ローマ3:26です。「それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」


 義認は赦罪を含みます。罪が処分されていないと、義と認められることはありません。ヨハネ3:18です。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」ローマ5:9です。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」


 義認は、永遠のいのちを含んでいます。神と共にいることを永遠に赦されています。

義認は、わざによってではなく、信仰によって得られるものです。

完全な義は、神によりキリストを通して与えられるしかありません。キリストのみが完全な義を持っておられ、そのキリストを通して私たちに義を与えてくださるということです。ローマ5:19です。「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって(キリストによって)多くの人が義人とされるのです。」


 義認の結果としましては、神との平和と神からの好意をもたらされます。ローマ5:1です。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

また、この世界と永遠の世界において、必要なものはすべてを与えてくださいます。ピリピ4:19です。「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」


 神と敵対関係がなくなり、神の前に立てるようになり、のろいの状態から好意の対象となります。


 義認は神のわざか、人間のわざかと申しますと、神が罪人を赦すなら、どうして神の義の高さと威厳が人は保てるのかとなりますと、絶対に無理であります。神は罰なしで赦したのではありません。キリストが代わりに十字架で罪を受けて死んで下さらなければならなかったのです。ヘブル9:14です。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」


 イエスは、信者の罪の過去、現在、未来の罪すべての代価を、十字架で支払われました。ヘブル10:14です。「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」。



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