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バプテストは、聖徒の堅忍についてどう信じるのか

 バプテストは、聖徒の堅忍についてどう信じるのか、共通の教理を持ち合いましょう。聖徒の堅忍の教理の要点は、最後まで忍耐する信者だけが真の信者であるということです。ならば、最後まで忍耐しない信者もいるということになるのでしょうか。信者に色々存在するということになるのでしょうか。そういう疑問を持ちながら、調べて参りました。


 それでは、ヨハネ8:31からです。「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。』」本当の弟子の条件が書いてあります。


 Ⅰヨハネ2:27,28です。「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」全体を読むと、何となく分かることは「あなたがた」とは教会のことで、教会は別の哲学なんか必要なく、何も教えられる必要はないということです。キリストから受けたそそぎの油とは聖霊なる神の内住です。聖霊の教えることは、キリストのうちにとどまる、教会の内にとどまるということです。


 Ⅰヨハネ3:9です。「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」神の種が個々の神から生まれた者の内にあるというのです。その種のおかげで、罪を犯さないというのです。種が芽を出して成長するには、教会にとどまることが必要です。そうすると罪を犯さなくなるということになります。


 忍耐をもってキリストと一体となるということこそ、救われているという堂々たる証しであって、表面的なクリスチャンとは区別されます。Ⅰヨハネ2:19です。「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。」


 教会にとどまることこそが忍耐をもってなされておくべきことであって、表面的クリスチャンと区別されます。表面的クリスチャンについて、聖書は「救われている」とも「救われていない」とも明言していません。でも、そこのところの理解はできます。マタイ13:20,21で、そのことをたとえで教えられています。「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」


 真の信者は、教会の中に忍耐をもってとどまりますから、特別な神の摂理がそういう者たちの福祉のため守られるということになります。ローマ8:28です。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」この聖句の鍵は教会です。教会を抜きにすると、どんなクリスチャンにも適用され、大ごとです。実際、そんなことをする方は、この聖句の偉大な経験は誰もできず、たまたまの偶然を適用させるだけです。


 マタイ6:30-33です。「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」


 「あなたがた」とは初代の教会の群れのこと、私たちに適用させるなら教会のことです。日常のことであたふたしないで、最も重要な「神の国とその義を第一に求めること」ことを最重要にしておきなさいということです。そうすれば、素晴らしい神の祝福を経験できます。これを個人でやっても、この経験は覚えられません。


 教会にとどまっていれば守られていくことになりますが、その力は、救いに至る信仰の成長の中で受けられます、すなわち先週学んだ聖化のことです。ピリピ1:6です。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」「あなたがた」とは教会のことです。イエス・キリストの再臨のときに、聖化が完成するというのです。


 ピリピ2:12です。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」「愛する人たち」とは一カ所にとどまる群れ、教会のことです。救いの達成とは、聖化に進むということ、ゴールはキリストの働き人になることです。


 ユダ24,25です。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。」教会にとどまっておる限り、栄光の御前に立たせてくださいます。何という神の備えでしょうか。


 信者堅忍という教理は、バプテスト独特な、他の宗派にはない教理です。しかし、非常に重要な、独特なところです。救いの福音が偏って述べられていますと、表面的クリスチャンを生んでいきます。神の保持について教えられないと、教会の重要性、バプテスマと主の晩餐が語られなくなります。イエス・キリストは救う力と同時に、保ちたもう力も保証されているのです。ですから、バプテストで落伍者が少ないのです。


 バプテストでは、指導の任に当たる者は聖書を正しく理解し、教えるべきであります。イエス・キリストを信じて救いを受けた後、主は私たちを変えていってくださり、そして私たちも教会にとどまることにより、主に従い続けるということです。クリスチャンとして立派な人物になって、何でも出来る一人前になっていくことでなく、主が成長させていって、ご用に役立たせて下さる者になっていくということです。自分の努力ではとてもなりきれないところにまで、私たちを成長させていってくださいます。


 堅忍の大事なところ、真の信者だけが最後まで耐え忍んで、信仰を守り通すということです。信仰力や霊的能力でということではなく、教会にただとどまっておくことで、この大事業が私たちのうちで成し遂げられていきます。


 口先だけの信者でなく、真実の信者であることを示すものは、ただ一つ、最後まで信仰をまっとうすることにかかっています。神の特別の摂理は、救われた者の上にあり、彼らを見張り、導き、守り、最後まで信仰をまっとうして下さいます。ローマ8:30-39です。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」


 真のクリスチャンは教会にとどまり、神の力によって保たれます。自分自身の力で救われた状態を続けることはできません。保たれるのです。また彼らの信仰も消え去ることもありません。なぜならば、教会にとどまることで、神は彼らを保って下さるからです。それは働きによらず、信仰によるのです。私たちが離さないのではなく、神がしっかり保っていて下さるのです。

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