バプテストとして、バプテスマと主の晩餐についてどう捉えておくのか、聖書から正しい認識を持つ必要があります。信仰者のバプテスマとは、その者を父と子と聖霊の名において、水面下に浸すことです。マタイ28:19です。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、」「あなたがた」教会は、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」ます。次に使徒10:47,48です。「『この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。』そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。」水により、浸礼のバプテスマを授けます。使徒8:36-39です。「道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。『ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。』そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。」マタイ3:5,6です。「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」ヨハネ3:22,23です。「その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。」
信仰者のバプテスマとは、十字架で死なれ、埋葬され、復活された救い主を信じた私たちの信仰を、罪に死んで新しい生命へ移されたことを力強く、厳粛に、美しい象徴の中に示すことです。ローマ6:4です。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」コロサイ2:12です。「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」
そして、信仰者のバプテスマとは、教会員となる権利、主の晩餐にあずかる前提条件でもあります。使徒2:41,42です。「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」マタイ28:19,20です。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
主の晩餐式とは、常に厳しい自己吟味の後に、種なしのパンとぶどう酒を用いて、教会員は死を以て示されたキリストの愛を記念として偲ぶのものです。Ⅰコリント11:28です。「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」Ⅰコリント5:1,8です。「あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。・・・ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。」Ⅰコリント11:26です。「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」マタイ26:26-29です。「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』」
バプテストは二つの礼典だけを信じていて、バプテスマが先で二番目が主の晩餐式です。最初にバプテスマを受けなければなりません。死んだ人が食べることができるようになるためには、まず生き返らなくてはならないからです。
教会において、バプテスマ式と主の晩餐式は、どのような役割を持っているのでしょうか。バプテスマは教会員となる資格、または入口になるものです。主の晩餐式は、自分を吟味することが必要で、これは教会のきよさを保つためになされなければなりません。そして、キリストの死を、他の人に教え示すための動機づけとするためです。
誰がバプテスマを受けるべきかというと、救われた者のみであります。信仰を持ち得ない幼児、亡くなった者は駄目です。
バプテスマを授ける権威はだれかというと、教会です。Ⅰコリント11:2です。「さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。」
バプテスマの四つの必要条件とは、正しい方法の浸礼、正しい対象の救われた者、正しい目的の教会員となるため、そして、正しい権威の新約聖書教会から受けなければなりません。そして、キリストの死、埋葬、復活を象徴するあかしとするためです。古い自分の死の葬式を意味し、救われたのでキリストの命令に従うということです。
それでは、なぜバプテスマを受けなければならないのでしょうか。それは、キリストが命じられたからであり、福音における自分の信仰を示すためであり、自分の生活の変化を示すためです。
主の晩餐式を受けるためには、救われてバプテスマを受け、教会員になっておらなければなりません。メソジスト、長老派、カトリック、ユダヤ教、モルモン教などと主の晩餐式にあずかれるかというと、あずかれません。主の晩餐式を受けるのは、人が救われ、バプテスマを受け、そして教会員になった者です。救われた者はいるかもしれないが、バプテスマを受けていないし、教会員でもなければ、加えることはすべきでありません。閉鎖的主の晩餐式は聖書的かというと、聖書的です。Ⅰコリント5:11です。「私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。」教会の権威下によって、救われ、バプテスマを受け、教会員となった者だけが受けることができます。
そういうわけで、主の晩餐式というのは、救い、バプテスマ、会員、そして交わりといったことで言い尽されます。交わりに加えられない者は、罪を犯して除籍されている教会員、他のバプテスト教会員です。
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