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  • 牧師

主の日について

 バプテストとして、主の日についてどう考えるべきでしょうか。一週の初めの日、すなわち日曜日は、主の日であります。それはどういうことかと申しますと、主のための日で、自分のための日ではないということです。使徒20:7です。「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。」使徒の時代、週の初めの日の日曜日に礼拝を守っていたことが分かります。


 コロサイ2:16です。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。」週の初めの日を大事にする態度について、ユダヤ人たちは律法の決まりである事々から色々言ってくるだろうが、何ら言い訳をする必要はないということを、パウロは指導しています。


 ヨハネ20:19です。「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』」週の初めの日に、イエスは復活の姿を示されました。


 Ⅰコリント16:1,2です。「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」献金がささげられていたのは、週の初めの日の日曜日でした。他の日には献金しません。


 そして宗教的目的のために、週に一日は聖別されるべきというのが、聖書的見解です。出エジプト20:8です。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」そして、黙示1:10です。「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。」ヨハネは、主の日に神からの黙示をいただいています。霊的なことをしっかり理解できる日であります。詩篇118:24です。「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。」これは主の日のことで、人間が決めたものではなく、神がもうけられたものなのです。ですから、安心して、これを喜び楽しめばいいのです。


 そうしますと、自然と、すべての世俗的労働とか、趣味、あるいは遊びを慎むべきだという自覚が生まれてきます。イザヤ58:13,14です。「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『はえある日』と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。『わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う』と主の御口が語られたからである。」主の日を特別に思う者には、大きな報いがあることを教えています。


 イザヤ56:2-8です。「幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行う人、これを堅く保つ人の子は。主に連なる外国人は言ってはならない。『主はきっと、私をその民から切り離される』と。宦官も言ってはならない。『ああ、私は枯れ木だ』と。まことに主はこう仰せられる。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。──イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ──わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。』」民族に関係せず、どんな人間でも、主の日を大切に思う者には、素晴らしい祝福が約束されています。


 主の日に集まった者たちは、公私ともに、共に恵みの道のすべてを心から守り、神の子らのものである平安に備えようとしていきます。ヘブル10:24,25です。「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」


 使徒11:26です。「彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」教理の学びをして、特別に成長させる日が主の日であります。


 使徒13:44です。「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。」主のことばが語られ、大きな影響力を及ぼす結果となるのは、主の日です。詩篇118:15です。「喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。主の右の手は力ある働きをする。」喜びと救いの声は、教会の内にあり、その中で、主の日にこそ、神は当然なる働きをなさいます。


 ヘブル4:3-11です。「信じた私たちは安息に入るのです。『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。』と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、『そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた』と言われました。そして、ここでは、『決して彼らをわたしの安息に入らせない』と言われたのです。こういうわけで、その安息に入る人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえに入れなかったのですから、神は再びある日を『きょう』と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、『きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。』と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」


 七日の内の一日の聖別の原理については創世2:3です。律法の時代は、週の最後の日に休んでいました。恵みの時代、新約の時代、教会の時代における、七分の一の時間の聖別の原理については、律法として守るのでなく、恵みとして週の最初を主にささげることをするようになりました。


 什一献金と一週の休みの日の関係があります。 収入の十分の一を最初にささげます。週の一日もまずささげるわけです。お金の初穂と時間の初穂の関係で共通点を持ちます。


 私たちは週の初めの日について、どう信じるというと、週の初めに集まる習慣があっていました(使徒20:7;ヨハネ20:1;Ⅰコリント16:2)。そして、礼拝の中で献金をしていました。「主の日」と書いてあります(黙示1:10)。


 信仰者は、この日をどう守るべきか、主の日として、神のものとして守るべきです。ですから、この日、私たちは、すべての世俗的労働と、罪の歓楽をしてはなりません。しかし、例外はありまして、マタイ12:10-12です。「そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して『安息日にいやすのは正しいことでしょうか』と言った。イエスを訴えるためであった。イエスは彼らに言われた。『あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。』」医者や消防士がその任務遂行が必要になったら、主の日でもその仕事をしなければなりません。しかし生きるためではダメです。この日に何をすべきかというと、礼拝、賛美、聖別であります。


 一週間の最初の日は、神の民のためにも、残されている安息の型であります。神の民がユダヤ人なら、主の日。神の民がクリスチャンなら、天国。主の日を休まないということは、永遠のいのち、本当の安息日を味わっているということです。


 安息日ということばを使う時、それは何を意味しているのか。安息日は一週の最後の日であり、主の日は一週の最初の日です。安息日は、金曜日の日没にはじまり、土曜日の日没に終わります。


 それは神の創造と、またエジプトからの救出の記念でありました。主の日はキリストの甦り、墓から復活されたことの記念です。異邦人は安息日を守るようには命じられていません。出エジプト31:12-17です。「すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は主のものである。ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない。後になってあなたの子があなたに尋ねて、『これは、どういうことですか』と言うときは、彼に言いなさい。『主は力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから連れ出された。パロが私たちを、なかなか行かせなかったとき、主はエジプトの地の初子を、人の初子をはじめ家畜の初子に至るまで、みな殺された。それで、私は初めに生まれる雄をみな、いけにえとして、主にささげ、私の子どもたちの初子をみな、私は贖うのだ。』これを手の上のしるしとし、また、あなたの額の上の記章としなさい。それは主が力強い御手によって、私たちをエジプトから連れ出されたからである。」さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」」


 なぜ一週の初めの日であって、終わりの日ではないのでしょうか。第七日は完結、終結を意味します。一週の初めは開始を意味します。キリストのよみがえりを通して、私たちは新しいはじまりを待つのです。


 主の日と主のさばきの日とは、どう違うのでしょうか。主の日は毎週来るもので(黙示1:10)、主のさばきの日は未来に与えられる、さばきの日のことです(Ⅰテサロニケ5:2;Ⅱペテロ3:10)。


 キリスト者は主の日をどう守るべきでしょうか。この日主に仕えて一日を送るべきです。釣りや猟をしたり、遊び、訪問などは週間日にしておくべきで、主の日をそれにあててはなりません。


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