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牧師

教会の執事~その義務

(祈り)教会の経済のために、十分の一ばかりでなく、ささげものを主にささげことができるように、力を、またその願いを、主が人々の心に入れてくださるように。


執事は食卓に仕えるように選ばれました。彼らが仕える食卓には、三つのものがあります。

(1)貧しい人の食卓(教会の中で必要のある人)。

(2)主の食卓(主の晩餐式の準備と補佐)

(3)牧師の食卓


 彼らがこれら三つの食卓に仕えるために、教会は、金銭を執事に預けなければなりません。主の晩餐式の後で、特に貧しい人たちのために献金が行われます。これがなされていれば、それは非常に良い習慣で、すべての教会でなされるべきだということができます。主の晩餐式の後、貧しい信仰者を思い、病やその他のことで、この食卓に集まることのできなかった人たちのことを覚えることは、まことにふさわしいことです。


 主の晩餐式を準備するためには、いくらかの金銭的支出が必要です。これは執事たちによって行われるべきです。そして、晩餐の配分に当たって、執事たちがそれに当たることは、非常に好ましいことです。しかし、そうでなくてはならないというのではありません。


 ひとつ付け加えておきたいのは、貧しい者の食卓に関してですが、一つの地域社会すべての貧しい者のことかというとそうではありません。教会は、慈善団体でなく宣教団体であるということを忘れてはなりません。


 執事はまた、牧師の食卓にも仕えなくてはなりません。どれだけの額を謝礼として差し出すのかは、彼らが決めることではありません。教会の事務会が決定すべきです。謝礼の額を決めるとき、決して少なめに見積もるべきではありません。なぜならば、数え切れないくらいの牧師が給料の少ないために、その活動が阻害されている例があるからです。一度、教会によって謝礼の額が定められたならば、執事たちは、それがちゃんとささげられ、そして支払われるよう注意しなくてはなりません。


 そして、牧師は、どれくらいの謝礼を受けるべきか、先ほども申し上げましたが、どのような基準から考えるかいろんな考え方があると思います。聖書から申しますと、みことばに専念できるほどで、レベルとしては普通より上と考えるべきだと思います。なぜなら、「二倍の尊敬」が、牧師に関して言われているからです。


 Ⅰテモテ5:17です。「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」これはどういうことかというと、特別な尊敬のことで、普通の尊敬というのが一倍で、目に見えない尊敬だけでなく、物質的にも倍の報酬が必要だということだからです。


 執事たちのうちの誰か一人が会計の事務に、ついてもらうことができます。その人は、金銭を受け取り、そして支出します。しかし、その時に覚えておかないといけないことは、執事というものは、その職務の性質上、全員が教会の会計だということです。だれか執事以外の会員を教会の会計とすることは、聖書に教えられていることではありません。しかし、便宜上、一人の人を実際的な会計として、役務を担当してもらうことは、差し支えのないことです。


 教会における金銭の支出は、すべて執事を通して行われますから、毎年の終わり、彼らは教会に会計報告をして、どのような金額が集められ、どのように使われたかを報告しなければなりません。このことは、金銭に対して、疑義が持たれないよう、明瞭にしておくべきです。このようなことがきちんとなされているなら、教会の力、そして教会の能率を著しく向上させます。


 執事の任務は、牧師と同様、一定期間と決められたものであってはなりません。彼らは、祈りとそして按手によって、任職されるべきです。多くの教会が、この点について、いいかげんな考えを持っていることは残念なことです。彼らは、執事職に重要さを置いていません。たかだか教会の事務員くらいにしか考えていません。


 中には、毎年、執事を新しく選ぶという教会もあります。その教会の中の一つについてこう言われたことがあります。「あの教会では、男の会員は、一度はみな執事になったことがある」と。これでは、執事の務めは、非常に低く見られていることになります。そして、このようなやり方をずっとやっている人たちは、執事の按手ということには反対します。彼らは執事の職に重きを置いていないので、そのような軽い仕事に按手を持って任職するのは、おかしいと考えるわけです。


 私たちは執事を、期限を切らないで選びましょう。そして、厳粛に彼らに手を置いて、使徒6:6の例に従って、任職しようではありませんか。「そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。」


 祈りは常に任務に適しています。また、手を置くことは、任職のしるしであります。中には、按手することに反対する人があります。彼らの議論によれば、按手は使徒時代に聖霊を授けるために用いられたのだと言うのです。使徒8:16-17などから、聖霊の傾注がともなったことがあることは事実です。「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」


 しかし、最初の執事たちは、すでに「聖霊に満たされて」いたから選ばれたのです。使徒6:3です。「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。」すでに聖霊に満たされているので、彼らが按手を受けたのは、聖霊が注がれるためでは決してなく、それは役職への任職を意味していたのです。執事に対する按手の目的は、任職ということなのです。


 聖書的な見解を按手に対して持つ人は、それが何か特別な賜物を与えるためではないということをよく知っています。あるところでは、按手式において、祈りながら手を置かれることがあります。しかし、これは、聖書の模範に従っていません。使徒6:6がそうですが、使徒13:3も見てください。「そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。」


 このように、祈りと按手がともに記録されてあるところを見ますと、まず祈りがささげられた後に、手を置いたという順序であるということが分かります。手を置くことは、役職への任職を意味しました。祈りながら手を置くということが、聖書の模範に逆らっていることが分かります。すべての教会において、執事の任職にあたり、祈りと、按手がなされることが、非常に望ましいと言わねばなりません。執事の任職が正当な指導をもって行われるということは、執事職に正統な権威を加えるものです。



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