(祈り)私たちの教会員が信仰において成長し、聖書の重要な教理に十分に通じることができますように。
教会の教理という言葉は、少し曖昧な言葉のような感じを有しています。この言葉は、教会が教えている事柄とか、または、ある教会が、聖書はこう教えていると信じている事柄を意味します。私たちは、後の方の意味で、この言葉を使います。
聖書が神によって霊感されたものであると信じるすべての人には、聖書が宗教的真理の源泉であるというように信じます。聖書は、人間に対する神の啓示を内容としています。聖書こそは、信仰と実践の最高の基準であります。この基準に合致するものはすべて正しく、それから外れるものはすべて誤っています。
ですから、私たち会員のすべては、毎日聖書を調べ、聖書の教えていることを学ぶ義務を負わせられています。この義務を行って行くに、聖書教理が頭に入っておかなくては、聖書読書が進みません。霊的食欲が出ません。
もともと知らないうちに持つようになっている聖書に対する偏見とか、偏見から来ているところの意見などで、結構私たちは毒されています。そういったことすべて、私たちが忘れてしまったときに、頭から抜いたときに、はじめて聖書読書が行うことができるようになり、楽しくなれます。
しかし、実際の話、こういった偏見なしに聖書を学ぶ人は、どんなに少ないことでしょうか。なぜかというと、偏見だと気づけていないからです。私たち人間性の不完全性ということも理由としてあります。ですから、聖書がどう教えているのかについて、聖書教理ですが、正しい信仰を持っている者の群れの教会として、同一の意見を持つべきであると思われます。特別な能力や人とは違うひらめきを求めず、バプテスト教会としての、歴史性のある知識を身につけていくべきです。
キリスト教の世界というところは、必ずしも一致があるものではありません。かえって、非常に違った、異なっている宗教的意見が存在しています。また、様々な異端が存在しています。どの者たちも、自分たちこそ神のみことば、聖書の案内人であるとし、また信頼に価する規範を持っている、と主張しています。ところが、その実は、まったく違った聖書を持っているかのように論じ合っています。
聖書が教える事柄は、いろいろなふうに組み立てられ、また多くの聖句が、多くの方法によって解釈されています。こういうふう現実を見るときに、聖書を正しく信じられる教理というものは、なるほど信仰者と不信仰者とを分けるのに役立ちます。
このように、宗教界には多くの異なった見解があることからして、聖書を真理の基準とする私たちたちも、聖書教理に関する自分たちの信仰をはっきりと言明しておくことが正しい態度であるということになります。この点においてはっきりさせておかない限り、「私は聖書を信じる」と申しましても、それ自体に説得力はまったくありません。
クリスチャンと称するすべての人が、聖書を分かっていると言います。それなのに、聖書が何を教えているのかということになりますと、みな意見が違うのです。ですから、何かのはっきりした言明がなければなりません。
聖書の教理について人が信じていることを、信仰告白、信仰宣言、あるいは信仰信条といった言い方をします。それは文章になっているものもあれば、書かれていないけれども暗黙の同意の場合もあります。
信仰信条というものに対して、これがあるために、よけいな宗教的意見の相違が出てきたという人もいます。しかし、実際にそうではなく、宗教的意見の相違こそが、信条を生み出したというのが、論理的にも、また歴史的にも正しいことです。
この信仰言明について、これは聖書の代わりになるものではないということを覚えておかなければなりません。信条というものは、神のみことばの中にある、信じるものの解釈にすぎないものです。バプテストの間においては、各個教会が独立していますから、それぞれの教会で、そのような言明を採択するかどうかは、そのそれぞれの教会独自の判断にまかされるのです。または、それぞれの教会で、自分たち自身の言明を作り上げることもできます。各個教会の持つ独自性が、その権限を教会に与えています。
それは変えることのできないものです。なるほどバプテストは自分たちの教会政治の方式を誇りとしています。その政治方式とは、それぞれの各個教会が小さな共和国と考える方式です。しかし、彼らとても、他の教派の諸教会と同じように結びつけられ、結びついて連帯しています。それは、教派的結びつきではありません。聖書真理に関する見解という点において同じ信仰言明であるということによって結びついているのです。
信条、信仰告白、信仰宣言、信仰言明といったものは、聖書の教理について、人が信じていることです。宗教的意見の相違が、信条を生みだしました。聖書の代わりになるものではなく、どの言明を信ずるかは、それぞれ教会独自の判断にまかされるし、作り上げられるということです。聖書真理に関する見解ということにおいて、同じ信仰言明によって結びつき連帯することがあるということであります。これは教派的結びつきではありません。
聖書をよく知るクリスチャンだけが、悪魔の手段に対抗できます。イエスも聖書を用いられました(マタイ4:1-)。強いクリスチャンになるためには、聖書の知識が必要です。それは、強い人間になるため骨が強くならねばならないのと同じです。聖書教理の研究は、クリスチャン生活の背骨を作り上げるのに役立つものです。
教会と聖書の関係は極めて大事なことで、教会は聖書を守り従うべきであり、後生に伝えるべきであり、そして明確な信仰告白を持つべきであります。しかし、相反する多くの教理が存在していますから、信じる事柄をはっきりと言明することが必要となります。違いがはっきりしているからこそ、信じていることを言明する必要があるのです。ただ「聖書を信じている」と言っても、何も分からないでしょう。
信条の危険性についても知っておかなければなりません。何度も申しますが、信条は、聖書に代わるものではありません。間違っていることがあるからです。逆に、信条を持たないことの危険性も知る必要があります。人に伝えられないし、自分たちも変化しやすいからです。
バプテストの信条が、私たちには必要です。私たちはバプテストですから、自分たちが何を信じているのか知らなくてはなりません。イエスに対する責任でもあります。教えるためにも、守るためにも必要です。バプテストは、信条を作り、公表しなくてはなりません。
昔は迫害がありました。迫害を受けるようなものを信じてはいないということを、知らせるために信条が必要になったのです。何を信じているのかを、はっきり示さなくてはなりません。正しいものを伝える必要があるからです。今日、バプテストは信条を持つ特別な必要があるかと申しますと、迫害などないから、どうでもいいではないかと、曖昧になってきています。
最後に、信条訂正の可能性はあるのかということについて、それはあります。聖書ではないからです(例兵役拒否)。しかし、真理は変わり得るものかと言いますと、変わらないものです。
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