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  • 牧師

教会の道徳的資格

教会員の道徳的な資格として、いくつかのものをあげることができます。


Ⅰ.悔い改め

バプテスマのヨハネは、イエス・キリストの福音のはじめに、神からの使命を持っていました。彼は人々に向かって説教しまして、「悔い改めよ。天国は近づいた」(マタイ3:2)と言いました。彼が施したバプテスマは、悔い改めのバプテスマでした。

バプテスマのヨハネが獄に入れられたとき、イエスもまた「ガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」(マルコ1:15)

また、使徒たちが遣わされたときも、彼らは「人々が悔い改めるようにと説教し」(使徒2:38)たのであります。主イエス・キリストは、よみがえりの後、次のようにおっしゃいました。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ24:46-47)と。

ペテロはペンテコステの日にこう説教しました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」(使徒2:38)と。またパウロは、エペソで三年間神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰をあかししました。アテネでは、「今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」(使徒17:30)と述べています。新約聖書は、このように悔い改めの教理に満ちています。


悔い改めは、福音の教理の大きな部分を占めています。律法は、悔い改めについて何も知っていません。律法の言葉は「これを行え、さらば生きるべし」であって、「汝赦されるために悔い改めよ」ではありません。

悔い改めとは、人の心が、罪に対してまったく変化させられることを意味します。悔い改めなくして、人はキリストの御国の祝福を正しく理解できません。ですから、悔い改めない罪人は、神の国に入ることができません。悔い改めない者にとって、キリストの教会ほど不適当なところはありません。悔い改めは、教会に属している間、この肉のからだでもって生きていく間ずっと、なされていく性質のようなものです。

Ⅱ.信仰

教会員たるべきもう一つの道徳的資格は、信仰です。聖書においては、キリストを信じる信仰に、大きな重要性が付されています。それは次の言葉によって明らかです。「御子を信じる者はさばかれない」(ヨハネ3:18)、「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3:36)、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハネ20:31)、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」(マルコ16:16)、「すべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです」(使徒13:39)、「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです」(ローマ3:25)、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ローマ5:1)

今上げた諸聖句は、他にも同じような聖句はたくさんありますが、福音の示すところは、キリストを信じる信仰が主要な原理として認められていることを示しています。なぜそうなのでしょうか。それは、信仰が功績を持っているからではないからです。信仰には、功績は存在し得ないのです。信仰は義務です。そして、義務が行われるところには、功績がないのは明らかです。


ルカ17:7-10「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」

神のしもべである私たちは、神を信じるということにおいては義務なのです。そのことで、誇るところは何一つありません。祈りを誇りますか。献金を誇りますか。奉仕を誇りますか。どれも義務なのです。そういうことで、信仰に功績は生じません。

さて、信仰は功績を有していませんが、信仰は人のたましいを、贖いの血との生命的接触にまで持ち運んでいってくれるのです。贖いの血は、無限の功績を有しています。信仰は、人をキリストに結びつけます。信仰の力は、キリストを受け入れることです。信仰者にキリストが関わってくださり、「新しい契約」という比類のない祝福が与えられます。ですから、キリストこそ、まさに信仰の対象です。救いを与え得る信仰は、イエス・キリストを尊敬し、イエス・キリストを抱く信仰です。

キリストを信じる信仰、「すなわち神の前で罪人の義認を得るツールとしての信仰」は、教会のメンバー足るべき、本質的な資格です。未信者は、誰ひとりとして、キリストの王国の市民として、ほんのわずかな主張もすることはできません。ここでは、通常言われている「新生」が、教会員の第一の資格としては述べられていません。なぜならば、「新生」は「悔い改め」と「信仰」に必ず随伴するからです。悔い改めた信仰者は、すべて新生した人物です。

新生というのは、私たちがキリストにあって新しい被造物になるという霊的な過程です。これは、再び生まれる、聖霊により生まれる、キリストとともに生かされる、あるいは神のかたちに従って新しくされる、といったような表現をもって表されています。「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」(ガラテヤ3:26)と、パウロはガラテヤの信者たちに言いました。また、主に愛された弟子は告げています。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです」(Ⅰヨハネ5:1)と。


こうして考えてきますと、もし信仰が教会員足る資格であるとするならば、新生も教会員足るべき資格であります。新生は信仰から切り離すことはできず、そして、キリストを信じる者は、ひとりひとりがすべて神から生まれているからです。しかし、新生は教会に入る際の資格であり、信仰は教会員足るためのずっと続く資格であります。

そういうことで、信仰も新生も、ともにバプテスマのために必要な資格です。いずれも、バプテスマの時に起こるのではありません。

私たちは、次のことを決して忘れてはなりません。すなわち、キリストの教会を築き上げる唯一のふさわしい材料は、霊的資格に関するかぎり、新生体験を持ち、いつでも悔い改めることができ、信仰を持ち続けることが可能な人物だということになります。これ以外の材料を使うことは、教会という組織の根本的な原理を歪曲するものです。

それをやっちゃいますと、キリストの王国を破壊することになります。家来のいない王国を考えることはできません。王があれば、必ず家来が要求されます。霊的な家来たちが、目に見える、そして地方の共同体を組織すること、これは教会の王の定めたところです。

そういうことで、新約聖書の中に、私たちは、教会という言葉を見出しますが、それは、この共同体につけられた名前です。聖書はいたるところで、こういった地域的な集会について語っています。こういった集会は、規則的な、目に見える組織を持っていました。また、これに入るためには、入会の儀式が存在していました。それがバプテスマ式です。

クリスチャンになりますと、誰もがそれぞれ教会に加入していかなくてはなりません。なぜならば、神の栄光を現したくなりますし、奉仕をしたくなるからです。教会に規則的に出席することで、信仰者の必要が満たされるということになります。なぜなら、クリスチャンとの交わりが生まれ、みことばを通して信仰が成長していくからです。しかし、教会出席について安易な気持ちや態度を示していますと、そのマイナスの影響は大きいものがあります。


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