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牧師

教会員の儀式的資格

 教会員足るべき儀式的資格について学びます。この資格とは、バプテスマのことです。聖書によれば、バプテスマなくしては、目に見える教会はあり得ません。この儀式を行うことは、信仰者がキリストに従うということの、最初の公の行動です。新生、悔い改め、信仰といった道徳的資格については、先回学びました。神と人との間の、たましいのプライベートな出来事であります。これらは、内的な敬虔さを示しています。


 ローマ6:3ー5を読んで始めましょう。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」


 この敬虔さは、外的な現れをともなっていくようになっています。この現れは、バプテスマにおいてはっきりしていきます。悔い改めて新生した信仰者は、父、子、御霊の名によってバプテスマを受けることになります。


 神の三つの位格に対する新しい関係の、目に見える象徴的な表現が、バプテスマの中に存在しています。すなわち、悔い改めと信仰と新生のうちに生じた関係です。まず、私たちはキリストの死にあうバプテスマを受けると言われています。私たちがバプテスマを受けるときに、「私は救いのためにキリストの死に頼る」と告白しているのです。そして、主が罪のために死なれたように、「私は罪に対して死ぬのだ」ということを、象徴的にそこで宣言しているのです。


 バプテスマにおいて、私たちは罪と咎のうちに死んでいた状態から、新しいいのちへとよみがえって、立ち上がるのです。また、バプテスマにおいて、私たちは、厳粛に主イエスの埋葬とよみがえりを記念します。


 バプテスマを授けられることにおいて、私たちは象徴的に、この世に対し、まず葬られるのです。バプテスマにおいて、私たちの罪は、宣言的には赦され、また、形式的には洗い流されるのです。


 水で洗うということは本来、文字通りに考えますと、からだから汚れを取り去ることです。バプテスマは、たましいから罪の汚れを取り去ることの象徴であります。私たちがキリストを信じるとき、そこには事実的な、また現実的な罪の赦しがあります。バプテスマには、このように、宣言的、形式的、象徴的な罪の赦しが存在します。


 私たちは先回と今回の二回で、教会員足るべき資格として、道徳的資格と、そして儀式的資格の二つをあげました。これが新約聖書にかなっていることは、キリストの大命令を見るときに明らかであります。またその大命令が使徒たちによって、ペンテコステの日にどのように理解され、どのように行われたかを見ると、さらに明らかであります。主のご命令には、次のようにあります。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(マタイ28:18-19)。


 ペンテコステの日に、ペテロの説教によって大きな悔い改めが起こりました。悔い改めた数千人の者が、キリストによる救いを受けたのです。それは次のように記録されています。「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた」(使徒2:41)と。また主は次のように付け加えておられます。「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使徒2:47)。


 すなわち、心転じて信仰を持った者は、まずバプテスマを受け、そして教会に加えられたのです。バプテスマが教会員足るべき資格の第一のものであることが分かります。よみがえられたイエス・キリストの命令を、弟子たちが果たしていったのは、ペンテコステの日、エルサレムにおいて実行されました。また、いずこにおいても教会が設立されたとき、これが実行されてきたのです。すべての時代における教会は、使徒たちを模範にしていますから、いずこにおいても悔い改め、新生し、バプテスマを受けたキリストの信徒たちがあるところには、聖書的に申して教会建設の材料があるということを示しています。このような人たちは、まず主に対しておのれをささげ、またお互いに自分をささげあい、そして、厳粛な契約によって、神のみことばのうちに示されているキリストのみこころを、自分たちの行動の規則としようと同意している者たちです。これが、新約聖書の用語に従って言うならば、教会なのです。その数が多くても、少なくても教会なのです。しかし、悔い改め、新生し、バプテスマを受けた信徒たちがいないならば、新約聖書的な教会ではありません。


 救われた者しか、教会員になれる資格はありません。救われていない者が教会に加わったならば、あるいは加わっているならば、それはもう新約聖書の言う教会ではありません。キリストが「出ていってすべての国々に福音を」と宣教命令を受け持つ資格はありません。資格どころか、そういう命令に対する従順さも生じなくなります。あぶないことです。ですから、教会員として受け入れるとき、基準を下げるということは、自殺行為であります。


(祈り)私たちひとりひとりが、より忠実なクリスチャンになることができますように。神のみことばを愛し、学ぶことを覚えますように。


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