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バプテストは、律法と福音の調和についてどう信じるのか

 神の律法は、道徳面で永遠に不変です。ローマ3:31です。「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」キリストの福音で律法不要となることなく、不変です。マタイ5:17です。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」キリストが来られたのは、律法を成就するためです。律法は守られ得るものだと証明するためです。ルカ16:17です。「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」言い方を変えて、大きく表現しています。


 これら「律法」という場合、道徳律法のことであって、儀式律法、宗教的律法、儀式律法、そして政治的律法といったものを指していません。こういったものは、変えられることがあるかもしれませんが、道徳律法は永遠であり、変更されることはないからです。


 律法は聖にして、正しく、善であります。ローマ7:7です。「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。』」律法は、人に罪を悟らせます。ローマ7:12です。「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」律法は聖なるものです。ローマ7:14も読みましょう。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」律法は霊的なものであるとありますが、神に属しているものだということです。ローマ7:22,23です。「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」ここに、心の律法すなわち罪の律法の他に、異なった律法があると紹介されています。これが神の律法です。ガラテヤ3:20,21です。「仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜る神は唯一者です。とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。」その律法を、人は守り得ないことを教えています。


 聖書が罪人にその戒律を成就させることの出来ないのは、全く彼らの罪を好む性質によります。ローマ8:7です。「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」そして、有名なエレミヤ13:23です。「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行うことができるだろう。」


 人間は律法を行ってはおらず、また守れません。それは、律法が間違っているのではなく、人間が罪を犯すからです。Ⅰコリント2:14です。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」ガラテヤ5:17も読みましょう。「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。


 次に福音についてですが、罪から救いまして、救われた者たちを仲保者イエス・キリストにより、聖なる律法に心から従わせること、これらがキリストの福音の大きな目的であります。そして、可視的教会の設立に関する、神の恵みの目的へとつながっています。ローマ8:2です。「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」いのちの御霊の原理というのが福音です。福音は、人を罪から救います。そして、ローマ4:10です。「どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。」福音による救いは、割礼という律法とは関係がありません。ユダ20,21です。「しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」福音の働きの流れが書かれてあります。「聖霊により祈り、神の愛のうちに」「主イエス・キリストを待ち望む」というのは、教会に属しておいてなし得ることです。マタイ16:17,18です。「するとイエスは、彼に答えて言われた。『バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。』」「わたしの教会」を建てることがイエスの福音の目的です。建物ではありません。信者たちの群れのことです。


 福音は、律法を無視するとか、破棄するものではありません。律法のすべての要求を満たし、しかも罪人を救うことのできる仲保者を与えるために現れてきたものです。ローマ3:21-26です。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」


 律法によって救われた人は、誰かあったでしょうか。ローマ3:20です。「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」ガラテヤ3:11です。「ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる』」のだからです。」


 律法によって救われるための条件があるでしょうか。ありません。ガラテヤ3:10です。「というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』」ヤコブ2:10もそうです。「ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。」


 律法が人を救うことが出来ないのなら、なぜ神は律法を人に与えたのでしょうか。ガラテヤ3:24-26です。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」罪の基準である律法を、守り得ないという自分の罪を知らせて、キリストの救いに導く養育係です。


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