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バプテストは、新生における恩恵についてどう信じるのか

 バプテストは、新生における恩恵についてどう信じるのかということで、教理に関する意思統一を図りたいと思います。救われるためには、罪人は新しく生まれ変わらなければなりません。有名なニコデモとの会話の中で、イエスは新生について宣べておられます。ヨハネ3:3-7です。「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』ニコデモは言った。『人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。』イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。』」


 新しく生まれ変わるのには、神の真理と共に働く聖霊の力による心の潔めが、最初にありますが、それは本人の気づくところではありません。Ⅱコリント5:17です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」キリストのうちにあることに気づくと、新生されていると言えるわけです。エゼキエル36:26です。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」神の一方的な働きかけであることが分かるでしょう。ローマ2:28,29です。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」心の新生という変化は神から来るものです。


 そう、新生は、私たちの理解の及ばない方法によるということです。ヨハネ3:8です。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」ヨハネ1:13もそのことが述べられています。「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」ヤコブ1:16-18でも同じことが述べられています。「愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」


 新生により、キリストの福音と、従順に結び合うということになります。Ⅰペテロ1:22-25です。「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」新生により、偽りのない兄弟愛を示すようになります。Ⅰヨハネ5:1も読みましょう。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」ここでも、兄弟愛が新生の証拠だと述べています。エペソ4:20-24も読みましょう。「しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」新生していれば、生活が変わっているはずだ、以前のようではなくなっていると言っています。


 新生の現実というものは、必ず、悔い改め、信仰、新生活の実となって目に見えるように現れます。エペソ5:9です。「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。」新生していますと、善意と正義と真実を重要視するようになります。そして、ローマ8:9です。「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」聖書に紹介してある御霊に従って生きる、具体的には、聖霊の宿る教会に対し大切にする、従うという行動を示すようになります。さらに、具体的なことは、有名なガラテヤ5:16-23です。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」これらすべてが可能なのは、教会につながっている場合に限ります。エペソ3:14-21です。「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」素晴らしいことが述べられていますが、教会の重要性が教えられています。


 人間の生まれながらの状態は、「自分の罪過を罪の中に死んでいた者。生まれながらの御怒りを受けるべき子ら」エペソ12:1-3であり、「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています」エペソ4:18、Ⅱコリント4:3-4という霊的無知であり、罪の奴隷ヨハネ8:34、ローマ6:17-19です。


 暗闇の圧制から「救われなければ」なりませんコロサイ1:13。なぜなら、自分で自分を救うことできないし、自分で自分を変えることができないからですエレミヤ13:23。罪人は義人に変わることは絶対にできません。知性と良心のいずれも汚れていますテトス1:15


 生まれながらの人間は、悔い改めて神を求めようとする性質がもともとありません。ですから、神の方から何かしなければならないというわけです詩編80:3ヨハネ6:44


 神は何をなさるのか、「良い地」にたとえられる「準備された心」となさしめて、そこに種が蒔かれ、実を結ぶということですマタイ13:18-23


 宦官の心に聖書を知りたいという思いを起こされ、ピリポに証しさせました(使徒8:26-40)。サウロの心には復活したイエスが直接働きかけられました(使徒9:1-5)。コルネリオの心にも働きかけられました(使徒10:1-5)。ルデヤの場合も働きかけられました(使徒16:14)。


 救いにおいて神が用いられる手段としましては、聖霊の働き(マタイ28:19;ヨハネ16:2-16)と備えられた福音(真理)(マルコ16:15;Ⅰコリント4:15)であります。個々人を救いに選ばれるにあたって、神が予定されている手段としましては、福音を語る者(マルコ16:15;Ⅰコリント1:21;使徒10:1-6)です。


 これらすべてのことがあって、新生が生じます。新生は、まったくの神の働きであるということです(ヨハネ3:3)。聖霊の働きにより新生しますと、救いを得ることになります。それと同時に回心し、そのことを自分が自覚し、周囲の者も気づいていくことができます。なぜなら、その人は悔い改め、真の神に対する意識を持ち、自分の罪の深さとさばきについて意識でき、自分の罪を悲しみと、さばきを避けたい気持ちになり、罪から離れ、神を求めようと決意し、そのための助けの必要を感じるようになります。こうして、キリストが罪からの救い主であるという意識を確信し、救われるためにイエス・キリストにより頼むということになります(エペソ2:8)。


 そういうことで、人が新生したときに起こることは、そういった信仰と悔い改めです。新生について、人はすぐ理解できるのかというと、私たちの理解を超越している出来事です。肉体的誕生と同じで、自覚はできません。新生においては、聖書が用いられなければなりません。みことばによらないとイエスが救い主であるということが分かりません(Ⅰペテロ1:23)。


 新生には証拠を伴います。悔い改めと信仰、そして、変えられた人生の実です。

人が新生したが、そのことを知らないということがありうるのかというと、それはありません。悔い改めたということで、自分で知ることが出来ます。


 救われるためには、何才以上でなければならないかというと、自分の罪が分かり、イエスを救い主として受け入れられる歳です。「罪の自覚」が無い間は、イエスの血潮によって天国に行けることになっています。


 新生する際に、人の力は何か役に立つのかというと、何の役立にもたちません(エペソ2:8,9)。新生は何回あるかというと、一回きりです。真の信者はみな新生しているかいうと、はい、その通りです(ヨハネ3:16,18,36,5:24)。


 一度新生した人間が、まだ霊的に生まれてないということがあるのかというと、それはありません。不従順なクリスチャン、新生しているが不従順な者は、神の子か悪魔の子か、どちらでしょうか。神の子です。しかし、懲らしめは与えられます。


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