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  • 牧師

バプテストは、聖化についてどう信じるのか

 私たちバプテストとして、聖化について、どのように信じるべきか、その教理を共有するための学びをしましょう。個人伝道の際に、自分が属するバプテスト教会の代表として、間違ったことを教えてはなりません。また、正しい教理を所有していることを誇りに持って伝道しようという意欲を持って下さい。他の教派の者たちに、任せてはなりません。


 聖化についてでありますが、私たちが神の聖なる性質を身に着け、神のみこころに従って生きる行程を聖い生活、聖化と申します。Ⅰテサロニケ4:3です。「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、」聖化していくことが、神のみこころです。Ⅰテサロニケ5:23です。「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」聖化は、イエス・キリストの来臨の時まで続きまして、霊とたましいとからだが守られていくと約束されています。


 Ⅱコリント7:1も読みましょう。「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」聖化には、神の恵みの働きではありますが、私たちの努力、希望、期待の必要があることを教えられています。

ここが問題になりまして、人間の努力で聖化をしなくてはならないと思い込むわけです。それは無理で、私たちがなせる神のみこころは、教会にとどまり続けるということだけです。神を恐れ貸し込んで聖化のためできることは、教会にとどまり続けるということです。


 そうしますと、聖化は進行形で続いていきます。箴言4:18です。「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」義人というのは、神が義と認められた人のことで、教会にとどまり続けることで、世の光となり輝き続けることは、聖霊の宮である教会にとどまってできることです。Ⅱペテロ1:5-8です。「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」聖化の前進していくことを、ペテロは描いています。どの段階も相手がおってのことで、孤独であってはできない段階ばかりです。当然、教会の中での成長の様子です。


 パウロは、聖化についてこのような表現をしています。ピリピ3:12-16です。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」


 聖化の始まりは、新生において始まります。ヨハネ1:29です。「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』」世の罪を取り除いていって下さるのは、神の小羊のイエスです。イエスを救い主と信じますと、世の罪を少しずつ取り除いていって下さる作業が、教会の中で続けられていきます。


 ローマ8:5です。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」聖霊に従うということが、聖化の必須の条件です。聖霊は教会に内住しておられ、そこにつながっておくことで、聖霊の影響を受ける結果となります。


 ピリピ1:9-11です。「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。」あなたがたとは教会の群れのことです。ここに留まる者は、聖化の過程を進んでいきます。


 聖化は、証印者で助け主である聖霊の臨在と力によって指定された手段であります。特に神のみことば、自己反省、自己否定、慎重な祈りといったものを絶えず用いて、信者の心の中で続行されていきます。


 ピリピ2:1です。「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、」このみことばが実現するのは、教会にとどまっている場合に限ります。証印者で助け主である聖霊の臨済と力を受けるのに、聖霊内住の教会が必須であるからです。


 エペソ4:11,12です。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」聖化の結果として、様々なキリストのための働き人となっています。これが目標であり、そのようになっていけるよう、自己管理が必要です。そのようになっていかない生活は、霊的逮捕の方向にあり、聖化を拒んでいる方向です。


 Ⅰペテロ2:2です。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」聖化に必要なのは、世の知恵や哲学ではなく、純粋な、混ぜ物のないみことばの乳であります。


 私たちはどうして聖化について学ばなければならないのでしょうか。求道者の段階においては救いについて学びますが、救われてからは、聖化の段階にあるのですから、聖化についての学びが必要なのです。聖化は留まることなく続くものですから、絶えざる学びが必要です。卒業、悟り終わりはないということを、言い含められ続けなければなりません。


 聖化の教理について、様々な見解があり、特にプロテスタントの主張は、教会抜きの聖化を教えます。個人の努力や修行、あるいは指導者の教えといった、人間的な関与で聖化は進むと考えています。立派なクリスチャンになるといった、アバウトな目標しかありません。


 バプテストは、神のみことばによって支配されるべきで、人の意見によるべきではありません。人は、神のみことばによってさばかれ、導かれるべきです。人の意見はどんな良い聞こえ方をしても、どれも真理ではありません。


 聖化は進行形で、肉の力によるのでなく、教会に内住する聖霊の働きによります。いっぺんにクリスチャンは完成しません。教会に属する信者は、キリストを目標として聖化されていきます。

 

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