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教会の性格

 教会という言葉は、新約聖書に100回以上現れます。教会と訳されている言葉は、エクレシアという会衆とか集会を意味するギリシヤ語からきています。しかし、その集会が、何のために集められたものかは規定されていません。原語がエクレシアでも日本語に訳される場合、違っている箇所があります。それは使徒19章にあります。32節と39節、そして41節です。

 「ところで、集会は混乱状態に陥り、大多数の者は、なぜ集まったのかさえ知らなかったので、ある者はこのことを叫び、ほかの者は別のことを叫んでいた。」ここの集会はエクレシアです。「もしあなたがたに、これ以上何か要求することがあるなら、正式の議会で決めてもらわなければいけません。」ここの議会もエクレシアです。「こう言って、その集まりを解散させた。」集まりと訳されたギリシヤ語もエクレシアです。他のすべての場所のエクレシアは、すべて教会と訳されています。


 エクレシアがキリストに従う者に用いられる場合、「聖徒たちの、あるひとつの集まり、または制度」としての集まりを意味します。たとえば、エペソ人への手紙の中の「教会」をいくつか見てみましょう。エペソ1:22の「いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました」とあります。エペソ3:21では、「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン」とあります。あるいは、エペソ5:25,27、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、・・・しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」


 これらの教会すべてはギリシヤ語エクレシアからの訳です。これらは、すべて制度としての意味に用いられています。礼拝するために、たとえば天道という一箇所に集まっているキリスト者の集会というような意味ではありません。教会というものを、制度として説明しようと「教会」と言っています。


 ところで、現代社会において、教会について、贖われた者たち全体として論じられる場合があります。多くの方々は、「教会とはキリストの神秘的なからだであり、救われた時、すべての者はこれに加入する」と信じています。それは、教会が見えざる共同体を指していると思っているからです。しかし、エペソ書の聖句に書かれている教会は、そういった意味合いはありません。あくまで、制度としての意味しか持っていません。


 教会という言葉は、聖書では、キリストの弟子たちの意味で用いられる場合がよくあります。それは常にひとつの教会、もしくはひとつの制度としての集まりを指しています。エペソ4:4です。「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。」「からだは一つ」は、各個教会としての独立自治、民主的なところの、今日の私たちがバプテスト教会と呼んでいるものを指しているものです。「からだは一つ」というのは、一つの種類の団体という意味です。「バプテスマは一つ」とは、一種類のバプテスマを指します。洗礼や灌水礼を含みません。


 教会という言葉は、さまざまな箇所で述べられていますが、常に場所に限定されています。「どこそこの教会」といった具合です。聖書においての、教会という言葉の大多数は、宗教的な目的のために集まった、一つの場所における集会を意味します。ですから「エルサレムの教会」「コリントの教会」「テサロニケの教会」「エペソの教会」「スミルナの教会」「ベルガモの教会」などといった言葉を読むことになるわけです。


 そして、教会の存在のために、多くの人間が必要であると考える必要ありません。パウロは、アクラとプリスキラ、そして「彼らの家にある教会」と言っています(Ⅰコリント16:19)。またピレモンの手紙では、「あなたの家の教会」と言っています(ピレモン2)。

 教会堂はなくてもいいのです。数が多くなくてもいいのです。数が多くても少なくても、新約聖書に従って組織された聖徒の集まりを、教会と呼ぶのです。


 一つの地方、王国、あるいは帝国を一単位とする教会という概念をわざわざ避けようとするかのように、「ガラテヤの諸教会」「マケドニアの諸教会」「アジアの諸教会」「ユダヤの諸教会」と言っています。すなわち、複数存在しているのを、ガラテヤの教会、マケドニアの教会という単数形を使用していません。使徒の時代、キリスト教が発展していったとき、そこには常に教会は複数であったということです。


 教会とは何か、そう質問されたときに、このように答えることができます。すなわち、「教会とは、キリストのバプテスマを受けた聖徒たちの集まりであって、キリストを彼らのかしらとして認め、神の前に義認されるために、キリストのあがないの犠牲に頼り、聖化のために聖霊に頼り、福音の信仰において一つとなり、また福音の礼典を保持することに同意し、またその律法に従うことに同意し、礼拝のためにともに集まり、世界におけるキリストの御国の発展のために協力する者たちの集まりである。」


 さらに短い定義を好むのであれば、次のように言うこともできます。「教会は、キリストのバプテスマを受けた弟子たちの集まりであり、キリストが言いたもうたことに対する信仰によって結ばれ、キリストが命じたもうたことを行う約束をした者たちの集まりである。」


 これがキリストの教会の正しい定義でありますから、これに加入しようとするのなら、資格が必要であるということになります。この資格には二つのものがあり、道徳的な資格と儀式的な資格であります。


 さて、教会の性格を私たちが学んだのは、信仰者として生活を続けていく上で、教会が重要であるからです。私たちの信仰を続けていく上で、それを個人で継続させていくことは困難です。日曜礼拝に忠実に出席し、みことばの食べ物を受け、賛美と献金、そして奉仕の場が、同じ信仰を持った者たちとともに与えられておくことが必要です。キリストは、ご自身から離れては何もできないと、ずばり私たちの問題点を指摘しておられます。キリストのからだである、目に見える教会の存在が必要なのです。私たちの忠実性が、良い教会を建てあげていく上で欠かせないものです。



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