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教会の牧師の資格と義務

(祈り)神が神の国のぶどう園に、より多くの働き人を召し入れてくださいますように。


 教会の役職は、教会の存在ということに関しては、本質的なもの、必須なものではありません。なぜならば、教会がまず存在し、そして、その教会が役職を任命するのだからです。


 また、こういった任命の後、神の摂理によってその中の誰かが死亡した場合、それは教会の利害に関係が生じてくるということはあります。しかし、教会の存在自体がそれによって脅かされるということは、決してありません。


 ある有能な著者の言葉ですが「役職は教会の存在(being)にとっては必要でないが、教会の福祉(wellbeing)のためには必要である」とあります。教会の役職の任命に関して、教会の主キリストの命令に従わない教会は、繁栄することはできません。


 新約聖書の教えからすれば、キリスト教において牧師と執事が、二つの永続的な役職であることは明らかであります。パウロは、キリストの霊的賜物について、こう言っています。エペソ4:11,12です。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」と。


 使徒と預言者は、一時的な役職であります。今は、そういう役職は存在しません。牧師、教師は、これは同一人物です。牧師は通常、教会の永続的な霊的役職です。執事の役職はというと、教会の世俗的なことに関する役職です。教会の役職について、順序を上げて説明してまいります。


 牧師という用語は、教会を監督する人たちに、最初に与えられた用語です。それは、牧羊者と、このような伝道者との間に、非常な類似点があったからです。牧羊者は、自分の責任の羊を預かっています。彼はその群れの世話をやき、その群れの必要を満たさなければなりません。そこでは、羊と小羊とが世話を受けます。


 主イエス、すなわち「羊の大牧者」は、すべての牧羊者に向かって言われます。ちょうどペテロに言われたように。「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15)、「わたしの羊を養いなさい」(ヨハネ21:17)です。「羊も小羊も、わたしを愛さない者には、渡すことはできない」と言われているようであります。


 ですから、いつの時代にあっても、いずれの場所にあっても、牧師の最高の資格とは、「キリストを愛する」ということです。他のすべての資格はすべて、この中心の資格を欠くのであれば、無意味であります。才能も、学識も、決して過小評価されるべきではありませんが、しかし、それらは常に敬虔さによって支配され、敬虔さが持つ潔癖さによって、潔癖さの確印を受けていなくてはなりません。


 牧師の仕事について、詳しく学んでみましょう。Ⅰテモテ3:1-7を読みます。「『人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである』ということばは真実です。ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。──自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう──また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。」


 テトス1:5-9もそうです。「私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。それには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。」


 以上から、牧師の勤め、職務は、本当のところ、労働であると言うことができます。パウロは申しました。Ⅰテモテ3:1です。「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」これは良き仕事であります。地上における最高の仕事であります。しかし、これは、あくまで仕事なのです。


 今日、監督とか司教とかいうような言葉が聞かれますが、原語において、こういう現代用語が持っているような意味はありません。使徒の時代に、一つの国や、地方や地域のいくつかの教会の上に立っている監督などというものは、存在しませんでした。


 監督といわれているギリシヤ語は、一つの教会の牧師を示しています。使徒20:17,28です。「パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。」「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」


 そして、新約聖書において、一人の監督の下に、いくつかの教会があるということはありませんでした。かえって、一つの教会で、監督が二人いるといった例が、少なくとも二つ見られます。今の使徒20:28と、ピリピ1:1です。「キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。」この場合、エペソの教会の長老たちが監督と呼ばれています。また、ピリピ1:1でも、監督たちと訳されています。


 また、新約聖書を見ていくときに、牧師、監督、長老とは、同じ役職をあらわしている三つの言葉に過ぎないことかが分かります。この見解は、Ⅰペテロ5:1,2です。「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。」


 ここの長老たちが羊を飼うように命じられているところから、もっと確実に証明されます。すなわち、牧師または牧羊者の仕事を行うようにと勧められています。ここで、ペテロは監督の仕事をするようにと勧められているのです。群れを牧し、と訳されている言葉は、以上に上げた節に出てくる監督という字と同じ語源を持っています。


 ですから、牧師の仕事は、群れ、すなわち彼が奉仕している教会の、霊的な監督を行なうということだということがはっきりします。ちょうど、文字通りの良い羊飼いのように、彼は強く健康な者と同時に、弱く、病的な者の世話をしなければならないのです。ある者は「堅い食物」で養うことができるでしょう。一方「ミルク」より、堅いものは何も消化できないという者もあるわけです。


 そこで、牧師はきよめられた知恵を用いなければなりません。Ⅱテモテ2:15です。「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい」と言われているのです。


 真理の言葉を正しく伝えるということに、大きな重点が置かれています。このために学ぶことが必要であります。祈り深い研究、聖霊に満たされた研究が必要です。みことばの説教と並んで、礼典の執行は、牧師の重大な任務です。


 今晩は、それらの細かいところを述べません。これ以上牧師の業務について言えませんし、牧師職に対する動機についても述べられません。しかし、二つのことは述べておきたいと思います。


 一つ目は、それは、牧師が見張り、監督するところの教会は、「キリストの尊い血で贖われた」ものであるということです。Ⅰペテロ1:18,19です。「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」


 次に、忠実な牧師は「大牧者」が現れたとき、「しぼむことのない栄光の冠を受ける」ということです。Ⅰペテロ5:4です。「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」忠実さと誠実さということに対して、尽きることのない力を与える、これ以上の動機があるでしょうか。


 ある方が、神から召されているかどうか、これをどう決めるのか、永遠の問題です。その根拠とするところの第一が、「自分は、何よりもキリストを愛しているかどうか」ということです。そして、自分の身辺を判断しまして、テトス1:5-9に当てはまるかどうか調べることでしょう。そして、召命を確かめるために、牧師以外の仕事で満足できるかどうかであります。このような判断が必要です。


 このように非常に敷居が高いのは、その仕事が神のものであり、それだけなされにくいということです。教会は、神のみこころのために教会の若い方を神が召したもうように祈らなくてはなりません。主が命令されているのに、働き人が少ないのです。


 牧師の任務をしっかり果たしていけるために、私たちの助けが必要であるということを申し置きたいと思います。彼らはがっかりしやすいのです。力を落としやすいのです。霊的な職務には、私たちが経験するこの世的な、目に見える報酬が少ないからです。私たちは牧師の代わりのできることは積極的にやっていかなくてはなりません。


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